子供の頃から書くことが好きだった。
描くことは苦手だったけど…
いつだったかある前世占いで、「パプアニューギニアの裁判所で書記官をやっていた」という結果が出たとき、
妙に納得したのを覚えている。
そういえば、今でこそしなくなったが、子供の頃はよく占いもした。
今でもあるのだろうか。
怖い類の「こっくりさん」。
やったことがない人にはにわかに信じがたいであろうが、あれは本当に、勝手に十円玉が動く。
確かあの日も放課後の教室でいつものように仲の良いグループで机を囲んで「霊」とやらを呼び出した。
今となっては何の霊だったか忘れてしまったが、何かの動物霊であったことは記憶している。
しかも、この「霊」。
それまでに何度もここに来ているというから皆の関心は一気に自分たちのことより、この「霊」へ。
どれくらい、そして、何をその目に見えぬ存在と当時の女子中学生たちが話していたのかは覚えていないが、
ある日のこと、この「霊」が「もう来れなくなる」と言い、「霊」にも寿命のようなものがあるのだと知った時はショックだった。
(成仏したのかも知れないが)
最後は力尽きていく様子が生々しく伝わってきて、私たちは皆、気づけば十円玉に指を置いたまま、号泣していた。
馬鹿げていると思われるかもしれないが、あの「存在」との別れが本当に辛かったのだ。
そして、その日を境に、私たちは「こっくりさん」をピタリとやめてしまった。
なぜ、このようなことを思い出したのか、ここに書いているのか、自分さえわからないのだが、
これもまた、目に見えない何かの計らいによるものなのかも知れない。
最近、とある店のHPに、5年前に突如亡くなった知人についての物語を寄稿した。
身近な人からの情報収集も兼ねて、完成させるのにひと月ほどかかっただろうか。
それまで、自分は「作家だ」などと口にするのもおこがましいと考えていたが、
初めて人から「作家だね」と言ってもらえた時は素直に嬉しかった。
ただただ書くことが好きで、海外での生活を経て、日本を外からも見ることができるようになって、
伝えたいことがたくさんあって、その延長線上に今の私がある。
きっと誰でも、誰かに伝えたいことがあって、でもそれを伝える方法は人それぞれで…
自分にとってはその最良手段が、たまたま書くことだった、ということなのだろう。
毎回、ブログを書くとき、何について書くか、とても「迷う」。
「迷う」というのは、正確には些細なことから、壮大な案件まで書きたいことが走馬灯のように廻り、
テーマが絞り込めないという状態。で、結局、書かない、いや書けないという事態に陥ることもしばしば。
時間だけが過ぎていき悶々とするのだが、今回は、先日入手したばかりの新しいiPadをひっさげ、
思い切ってたった4畳しかない小さなオフィスを出て、リビングに移動。
起き抜けに朝の5時から気の向くままにキーボードを叩いてみた。
ここが、肝心だ。
”気の向くまま”
不思議と、昨夜、床につく前の「書くべきこと」と「書きたいこと」の間で揺れていた心が吹っ切れたようだった。
そういえば、今朝方は黄金色の小麦が一面に実っている夢をみた。
「書きたいことが書くべきことなんだ。だから、書く」
そんなシンプルな心の声を聞いた気がした。
あなたの心は自由です。
自分は何が好きか。
本当は何をしたいのか。
どう生きたいのか。
そっと耳を傾けてください。
ほら、心の声が聞こえませんか。